アユタヤで最も日本人に所縁のある場所として、チャオプラヤー川を挟んだ旧市街の反対側に位置している「アユタヤ日本人町跡」があります。世界遺産の中心観光地からは離れていますが、大手旅行会社のアユタヤツアーに含まれており、日帰り旅行の観光で訪れる方も多い場所となっています。
アユタヤローカル観光案内の第一弾として「アユタヤ日本人町跡」をご紹介します!
アユタヤ日本人町とは?
14世紀頃から18世紀初頭までアユタヤにあった日本人集落で、当時のアユタヤ王朝がミャンマー(当時はビルマ)のタウングー王朝からの侵攻を防ぐために、戦国時代から江戸時代初期にかけて、主君を失った浪人など、実戦経験豊富な日本人を傭兵(クロム・アーサーイープン(日本人義勇兵局))として雇い入れ、朱印船貿易などで成長した町といわれています。
これらの日本人傭兵以外にも、幕府の禁教令による弾圧を逃れたキリシタンなども朱印船でアユタヤに入り、最盛期には1,000~1,500人の日本人が暮らしたといわれています。
アユタヤ日本人町と山田長政
アユタヤ日本人町の頭領として有名なのが「山田長政」で、駿河国(現在の静岡県)の出身といわれ、1612年に朱印船でタイに渡り、日本人傭兵団で頭角を表した人物で、アユタヤ王朝24代ソンタム王からの信任が厚かったこともあり、バンダーサック(官位制度)の第三位であるオークヤー・セーナーピムックの称号を与えられたほどの人物です。
残念ながら、次のアユタヤ王朝27代プラーサートトーン王の即位に頑固反対したことで、タイ南部のナコンシータマラートへ左遷され、1630年マレー人王朝であるパタニ軍との戦闘で足を負傷し、その後、何者かに毒薬を盛られて暗殺されています。
山田長政の暗殺を機に、プラーサートトーン王の命令でアユタヤ日本人町は焼き払われてしまいます。その数年後、生き残った人々で再興されましたが、鎖国令の発布と共に日本との往来が無くなり、自然消滅したといわれています。
アユタヤ日本人町跡の見どころ
残念なことに、現在の「アユタヤ日本人町跡」には、当時の建物などは一切残っておらず記念公園となっています。
敷地内にはアユタヤ日本人町の跡の碑をはじめ、資料館としてアユタヤ・ヒストリカル・スタディ・センター(Ayutthaya Historical Study Centre)と山田長政(オークヤー・セーナーピムック)とターオ・トーンキープマーの展示(The Exhibition of Yamada Nagamasa(Okya Senaphimuk)&Thao Thong Kip Ma)の2棟が整備され、さらに小さな日本庭園などがあり、チャオプラヤー川沿いには小さな船乗り場が整備されていますので、悠久の川の流れを感じながら先人たちを偲ぶことができます。
筆者が初めて訪れた時には拝観無料だったのですが、今は入館料50バーツとなっています。
アユタヤ日本人町跡の基本情報
アユタヤ日本人町跡の基本情報をご紹介します。
名称 | 日本人町跡 |
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名称(英) | Japanese Settlement |
営業時間 | 8:00〜17:00 |
休館日 | 無休 |
料金 | 50B |
住所 | Kamang, Phra Nakhon Si Ayutthaya, 13000 |
日本人町周辺の観光地は?
ワット・ヤイチャイモンコン
日本人町跡の周辺には「ワット・パナンチューン(Wat Phanan Choeng)」や「ワット・ヤイチャイモンコン(Wat yai chai mongkhon)」があり、歩いての散策は難しいですが、レンタルサイクルなどであれば十分に楽しむことができます。
「ワットパナンチューン(Wat Phanan Choeng)」や「ワットヤイチャイモンコン(Wat yai chai mongkhon)」については、後々詳しくご紹介する予定です!
アユタヤ日本人町跡のまとめ
世界遺産の観光中心地からは離れており、不便なところではありますが、先人たちの足跡を感じることができる施設なので、是非、アユタヤ旅行に来た際には足を運んで欲しい場所です。